子どもたちにかける言葉

cheer(work)

ついついしゃべりすぎる癖がある。不幸を楽しむ癖がある。

余計なことまでしゃべってしまう癖は昔からで、思ったことは口に出し、基本的にすべての不幸や事故も奇跡的で面白いことだと思っている。自分のことも他人のことも珍しいことや困ったことには笑ってしまう癖がある。「面白い」と。

ヒドイ人

それによって今までどれだけの人を傷つけてきただろう。こちらの真意とは裏腹に、「ひどい」と言われた事は数知れず、まぁ要するにデリカシーがない。

ちびまる子ちゃんで言えば「野口さん」的ポジションで、自分が好きなことや興味あることにいつも夢中で友達なんていない方が都合が良いというタイプ。

誰かが包帯を巻いて登場すれば、「どうしたの(笑)」となる。包帯を巻くような怪我をした奇跡への称賛なのだが、そうは伝わらない。人生一度しかないのだから、何か特別なことが起きた方が面白いに決まっているという価値観に共感していくれる人は少数だろうか。

中には「笑ってくれて有難う」という、変わった人もいる。それに対しては「笑わせてくれて有難う」なわけで、その奇跡をみさせてくれて「有難う」はこちらのセリフ。

交通事故にあった、借金ができた、親が失踪した、恋人に裏切られた…。小説のようなことが身の回りにも意外と起きるもの。その度に、「おうおう派手にやってますね」と笑ってしまう。人生は面白いことばかりだ。

不幸が起きるたびに悲しい顔をして涙を流すのは、どうも性に合わない。私だったら、一緒に泣いてくれる人よりも一緒に笑ってくれる人がそばにいてほしい。成功やラッキーなことばかりの人生なら、誰も苦労はしないけど、実際辛くて苦しいことの方が多いのだから、大きな事件が起きた時は余計にそれにぶち当たったことを盛大に祝いたい

失敗や挫折はいっぱいした方がいい。その時自分がどう思うか、どう感じるかが人生を決めていく。「私はアンラッキーで、人生全然面白くなくて、生まれてなんかこなければよかった」と嘆くより、「なんてドラマティックな人生なんだ!いろいろ事件おきすぎてウケるんですけどwww」と笑っている方が幸せなんじゃないかと。

思いっきり自分の考え方を肯定してしまったけれど、失敗を避けてきた人に対しては、私のかける言葉は衝撃でしかなくて、単に「ひどい人」なのは、自覚しておいた方がいいと思う。実際に今までにも多くの人を傷つけてきていることは事実で大いに反省すべきことではある。

子どもに対して

特に子どもと向き合う仕事をしている中で、各ご家庭の教育方針に反して、子どもたちに「ヒドイ」と、思わせてしまうことは、私の真意ではないからだ。

最近生徒のレッスンノートに「先生に嘘の花のようだと言われてショックだった。」と書かれていた。そんなことを言うなんて、まったくひどい奴!!

その場だけ美しく見せようと思ってもだめだよ=基礎が大事だよ=本物の花になろう

の言葉がけのつもりだったが、そこだけを切り取られたらただただヒドイ先生だ。「ごめんなさい。」とノートに書き添えた。スタジアムに出演する生徒を選抜する際、「それじゃぁ草だ。」とか、「花は花でもまだカスミソウぐらい小さい花だ。」とかいう比喩を使った。

子どもたちが親に伝える時「先生に草と言われた。」と、報告するのだ。私の人となりを知ってある程度信頼を置いてくれている親御さんなら笑ってくれるだろうが、何も知らずにそれを聞けば、「大丈夫か?その先生は!」となるのだろう。

子どもたちにわかりやすく説明しようと工夫しているつもりだけど、「あなたは草だ。」と、言ったところだけを切り取られたら、ただのパワハラ。本当に気を付けようと思ってさすがに猛省した。

スタジアムで求められるものを伝えるのに「華になれ」は、よく使う表現。踊りが正確にできるとか、技術が高いとか、基本的なことができた上で、その次は表現力や華やかさ。大きく踊って胸を張って視線をあげて視点を定める等、技術的なことは伝えるのだけど、その先、優劣を決めなければならないとしたら、その子がスタジアムの中で花を咲かせられるかどうかというところ。

今どの程度かと伝えなければならないときに、造花⇀草⇀カスミソウ⇀ガーベラ⇀ひまわりと仮定したレッスンは、どうやら無駄に子どもたちを傷つけてしまったようだ。

まとめ

不幸を良しとする価値観と、思ったことをべらべらしゃべってしまう癖は、信頼関係を築いたうえで、発しなければならぬ

本日の教訓…以上!!

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