サッカーとの出会い

cheer(work)

日本のブラジル、清水・静岡産まれの私は、物心ついた時にはサッカーが生活の中にありました。保育園で初めて習うスポーツは恐らくサッカーなんじゃないかと勝手に思っています(静岡だけか??)。2人の兄の影響も強いのだと思いますが、電信柱をゴールに毎日暗くなるまでサッカーしていて、私はなかなか仲間に入れてもらえませんでしたが、たまに人数合わせで入れてもらえる時はうれしかったな。我が家は草薙の丘の中腹にあって、ボールが坂を転がってしまった時は、当時開通したばかりの南幹線まで転がって行ってしまって、全力で走って追いかけたものです。今考えるとめちゃくちゃ怖いことしてた。2人の兄は小学校にあがったらサッカー少年団へ入団。週末のおでかけは全てサッカーの試合になった。バブルのその頃、父は大きな車で団員を送迎をし、隣町の小学校や河川敷のサッカーコートへ出かけ、ディレクターチェアを広げてお茶をすすりながら檄を飛ばし、ソニー製の大きなビデオカメラで撮影しては、夜我が家で全員を招いて反省会を行う。大人がワイワイお酒を飲みながら子供たちのサッカーをみて楽しむ姿は、今でも鮮明に覚えていて、大人って楽しそうだなって思っていた。私は女の子だからとピアノを進められ嫌々習い、小さな反抗心で器械体操を続けて母が自転車で送迎してくれた。体操の選手コースに入る前は、よく兄のサッカーにつきあわされて、キツネのぬいぐるみをタオルでくるんで世話をしながら、レジャーシートで一日中ゴロゴロ。会場が小学校の時は自分の小学校にはない珍しい遊具で遊べるのが楽しかったけど、いったいいつになったら帰れるのかと、兄たちに夢中の両親に少し腹を立てていた。一度試合中におもちゃの笛を思いっきり吹いて怒られたなぁ…。笛一つで全員が注目する恐怖は今でも忘れられない。

小学校高学年の時には、草サッカーのプラカード持ちの人数合わせに女子サッカーチームのユニフォームを着せられてプラカードを持った。なんという男尊女卑。なぜプラカードを持つのが女子なのか、当時の私はちょっと違和感を持っていた。男子がやれと。まぁそんなこんなで、ずーっと女子でいることにコンプレックスがあったのだと思うのだけど、Jリーグが開幕した中学生の時、友達に誘われてサッカーを始める。中学校ではバレーボール部に入りつつ、部活後に週1.2回サッカーを習い始めた。兄たちに鍛えられていたので、そこそこセンスはあったけど、実際にスパイクをはいて試合をしたときは、とても興奮した。何度か半スローをとられたり、無駄にオフサイドをとられて、パニックデビューではありましたが、広いサッカーコートを思いっきり走るのは楽しかったし、自分にボールが回ってくるときの主役感はとても好きだ。何よりも清水FCの青いユニフォームが、兄たちと同じで嬉しかった。同等の価値ある人間だと、自分でむりやり納得させた感がある。

Jリーグの開幕は、我が家では大事件だった。バブル崩壊の暗い雰囲気を吹き飛ばしてくれた。ホーム試合の日はみんなで草薙球技場まで歩き、チアホーンをならして応援した。一番熱狂したのは母だった。シャペウラランジャに入って、ウェアを購入し、サンバ隊の近くで声を枯らして応援した。アウェイの日には草薙駅前にあった「フーリガン」というその頃では珍しいスポーツバーに行ってTV観戦した。家の中のものがJリーグ公式グッズであふれ、ホーム試合のスケジュールを中心に家族の予定が回るようになっていった。その頃兄たちは、一方は静岡学園で、一方は清水東でサッカー部に所属してはいたものの、将来を見据えて退部。一方は美術の道へ、一方は理数へと進路を変えていくことになる。私はその時まだ中学生で、兄たちと同じ道には行かぬと固く決意。清水東と静岡学園の受験コースが当たり前の塾に通いつつ、ひそかに東海大一への進学を希望。三者面談で喧嘩という失態をかますのである。私は東海大一に行ってサッカーが応援したい。志望動機はただそれだけ。親の頭を悩ませた。

めでたく希望通り、東海大一に進学し、チアリーダー部に入部。これでサッカー応援ができる!と思うのも束の間、どんどんダンスに夢中になる。実際サッカー応援に行った記憶は一度ぐらい?野球応援は覚えているけど、サッカー応援ってあったかな?のレベル。それよりも自分たちの大会や文化祭の練習で忙しかった。それでもホームゲームの日には、部活が終わった後急いで帰宅しスタジアムへ。その頃は日本平で行われることがほとんどで、西の2階席、右隅が定番だった。年に数回はアウェイにも出向き、母と一緒に熱狂した。東海地区のパーティーやシャペウラランジャのイベントにも参加して、充実したサポーターライフを過ごしていた。

大学進学以降は、なかなかサッカー観戦に行く機会も減るのだけれど、日産や国立には何度か足を運んだ。下宿時代も共通の話題はいつもエスパルス。私があまりにも試合を見ていなかったりすると、「みなさい」と叱責された。就職し失敗し、半年で実家に戻ってきた私を支えてくれたのは、チアリーダーとしての活動だった。私がそれをやってもやらなくても、両親はSSのシーズンシートを購入し、毎試合ホームゲームを観戦に行っていた。土日はスカパーでアウェイの試合をチェック。兄たちが小学生だったころに行われていた、あのビデオ会のように、父はお酒を飲みながらサッカーを楽しんでいた。その頃、母親は真田さんのファンクラブに入会し、ますます熱狂して応援する日々。プロマイドを眺めてはキャーキャー言って、私にはいちいち選手の情報を聞いてくる始末。「マジで知らんのよ」って、何度言っても「教えてよ~」とすり寄ってくる。チアリーダーが選手から一番遠い存在だということを、母は未だに理解していない。「あんなピエロみたいなこと」…と、器械体操をしていた時もチアリーダーの活動も、父親はあまり応援してはくれなかった。とにかく女性らしくあってほしいという父親の願いに、私はいつも反抗してきた。それでも、今日の踊りは良かったとか、今日は何人いたとか、あの子はすごく大きく踊るとか…時々感想をくれるのが嬉しかった。母親も、「あんた今日はここにいたでしょ」とか、「手を振ったけど分かった?」とか、うれしそうに話してくれる。兄たちに比べてとんでもなく出来の悪い娘だけど、少しでも人生の楽しみになれたかな?と安心する瞬間だった。

不思議なもので、今はそのチアリーダーを育てることを仕事としている。大好きなエスパルスに関わりながら仕事ができる人生を歩めるとは、思ってもいなかった。自分自身の能力では全然納得できるような仕事ができておらず、反省の日々。サッカーへのエスパルスへの想いが強いからこそ、もっとこうしたい、こうあるべき、こうでなくては…と、思うことが多すぎて処理しきれない。負けた時も勝った時も、私は西の2階席をピッチから見上げて、ちゃんとできていたか自問自答する。サポーターにとっては、あまり興味のない1分2分の演出だということも肝に銘じつつ、それでもその数分が、ちゃんとスタジアムにマッチしていただろうか、チアリーダーたちがちゃんと今日のスタジアムの華に慣れていただろうかと考える。チアリーダーを大切に思うのと同じ、いや、それ以上に私はサッカーが大好きだから。サポーターが応援で選手を鼓舞するように、私たちはサポーターを応援する。そして、まだサポーターになり切れない観客をサポーターに押し上げる。サッカーの楽しさを、サッカー応援の楽しさを、そしてここで生まれるコミュニティがいかに人生を豊かにしてくれるかを、私はあらゆる手段で多くの人に伝えていきたい。私の人生は良い意味でたぶん、サッカーに呪われている。

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